町の概要 最終更新日:2021年4月23日 ■御船町の人口及び世帯数■御船町の位置熊本市の東南16.6kmに位置し、方位は東経130度48分、北緯32度42分、東西約20km、南北約10kmに広がり、北は益城町、東北は阿蘇郡西原村、東は山都町、北西は嘉島町、西は熊本市、南は美里町、南西は甲佐町と隣接する。■第6期御船町総合計画■町政要覧2021■沿革 「御船(みふね)」の由来は、景行天皇が九州を平定するためにご巡幸なさった折、その「御船(おんふね)」が着岸したことによると伝えられます。 南北朝のころには、阿蘇家の一族、御船河内守盛安(みふねかわちのかみもりやす)が領有、ついで戦国時代には御船阿波守行房(みふねあわのかみゆきふさ)が支配しましたが、行房は阿蘇家の智将、甲斐宗運(かいそううん)に討たれます。その功により、宗運は御船千町を阿蘇家から与えられ、この地を支配しました。 天正15年(1587)、豊臣秀吉によって肥後の国は2分され、御船は小西行長(こにしゆきなが)が治めることになりました。 関が原の戦いで行長が滅ぼされると、その支配は加藤清正(かとうきよまさ)に移り、さらには細川忠利(ほそかわただとし)の手に移ります。 忠利が入国すると、政治の組織・制度に大変革行われました。なかでも注目すべきは、地方政治の根幹をなした手永制度です。手永制度とは、郡と村の中間に当たる行政区画で、惣庄屋が20~30ヶ村を一括支配するというものでした。現御船町の大部分は、はじめ西木倉、のちに辺田見(へたみ)に設けられた木倉手永会所総庄屋(きくらてながかいしょそうしょうや)の支配を受けました。豊秋列村は鯰手永に属していました。 明治12年、新三法の実施とともに、御船町・滝川(たきがわ)・木倉(きのくら)・滝水(たきみず)・上野(うえの)・豊秋(とよあき)の1町5列村となります。 昭和28年9月、町村合併促進法が施行されると、御船町を中心に合併の気運が高まり、昭和30年に旧鯰郷の一部であった豊秋、小坂、陣の豊秋列村、旧木倉郷の七滝、滝水、木倉、高木の六ヶ村を合併、昭和37年には、矢部町(現山都町)中島の一部であった松ノ生(まつのはえ)を編入して、今日の御船町が誕生しました。■町民憲章一、私たち町民は 健康に気をつけ 仕事に励みましょう一、私たち町民は 家族をいたわり 人々と 助け合いましょう一、私たち町民は 祖先をうやまい 郷土の文化を高めましょう一、私たち町民は 自然を大切にし 美しい町をつくりましょう一、私たち町民は 国を愛し 平和で豊かな町をつくりましょう(昭和五十五年 二月一日 制定)■町章中央の「ミ」と周囲の船の形で「御船」を表し、町勢が順風満帆であることを象徴、船の円形で町民の融和団結による発展を示しています。■町花淡い紫色の美しい花房をつけるふじは、品位と華麗さを誇り、日本情緒を醸し出す長木として親しまれています。戦国時代の御船城主甲斐家の家紋(下り藤)でもありました。■町木もっこくは、四国、九州に分布する常緑喬木であり、御船町の山野にも自生しています。樹形は極めて端正で、刈り込みをしなくても見事な姿を見せ成長します。